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かみじま郷土話⑩ 荘園領主東寺と地頭

2021年12月01日 曽根 大地

伊予国弓削島庄地頭領家相分差図(と函153

 東寺は、弘法大師空海が賜って以降、真言密教の道場として発展してきました。しかし、治承・寿永の内乱の影響が東寺にもおよんだことにより荒廃が進み、貴族社会の間ではその再建が大きな問題となっていました。そのような時に、宣陽門院によって東寺に寄進された弓削島荘は、大和国平野殿荘・安芸国新勅旨田荘・若狭国太良荘などの荘園とともに、東寺の再建を担う荘園(供僧供料荘園)として定着しました。

 東寺に寄進された延応元年(1239年)に、武蔵国多西郡出身である小宮氏が新補地頭職を得て弓削島荘に入部しました(と函3)。鎌倉幕府は、承久の乱後に京方から多くの荘園などの所領を没収し、そこに地頭を派遣しました。地頭は侵略行為を行い、荘園領主と争いがおこりました。弓削島荘においても例外ではなく、小宮氏による侵略行為が行われました。この問題の解決を図るため、荘園領主である東寺は、六波羅探題や鎌倉幕府の法廷に訴え、小宮氏の地頭職は没収されました。小宮氏にかわって新たに地頭職を得たのは、鎌倉幕府将軍久明親王の母房子という女性でした。貴族の女性であるこの地頭は、弓削島に入部することなく地頭代を派遣し、得分(地頭として得る収益)の確保に努めました。荘園支配に積極的であった小宮氏と比べて、新しい地頭房子は荘園支配には消極的でした。東寺はこれを機として、地頭との間で有利な条件で下地中分(土地の分割)を成立させました。下地中分を示す絵図によると、網場(漁場)については中分となりましたが、田畠・山林・塩浜については、領家(荘園領主)3分の2、地頭3分の1となったことがわかります。(と函153)。

(史料の函名と番号は東寺百合文書WEBより。スマートフォンやパソコンで東寺百合文書の原本写真を見ることができます。)

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